11.02.15:21
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09.30.00:17
幻想の詩―神と風祝の連―#11
守矢神社の面々で連載物。
※鬱要素有り
現実は筋書きに沿っていて。
慌ただしく廊下を駆ける音が、響いていた。
通り掛かる家人達ははそれを諌めたが、その音の主は一向に足を止めようとはしなかった。
休む間もなく走り、部屋という部屋を片っ端から覗き、そこに目的の人物が居なければ、彼女はまた走り出す。鬼気迫るその様子には家人達は首を傾げて不思議がっていたが、その手に握り締められた皺だらけの紙を見たなら、その理由も察する事も出来たろう。だが、生憎と彼女の剣幕に敵う者は居らず。ことごとくが走り回る早苗を遠目に見遣るのみであった。
広い屋敷の中を駆けずる一人の少女は、時折「何で」と零していた。
汗の滲んだ額を拭い、貼り付く前髪を退かし、そしてまた目的の人物を探す。
――神奈子と諏訪子は、例の場所にいる。
◆
「もう、戻れないわね」
屋敷の中が騒がしいのを見て取ったのか、神奈子は一種の郷愁とも思える光を瞳の奥に湛えて、そう呟いた。懐かしき日々に別れを告げたのは今日ではない。自筆の手紙を、早苗に気付かれぬようにそっと机の上に置いた時からである。神奈子と諏訪子はその瞬間から、自分達が元のような存在で居られぬ事を自覚していた。それだから、もうじき別れを告げるこの世界への懐かしみも一入である。この世界は、早苗の成長してきた軌跡を数多く残しているのだから。
「その上ここにも居られない。順風満帆だなんて程遠いとは思うけど、進むしかないんだね」
「見た目は順風満帆かも知れないわ。滞りなんて有り得ないんだから」
「はは、順風満帆なのは、もっと奥の方か」
からからと乾いた笑いを零しながら、諏訪子は力なく微笑した。庭先に生えた桜の木に、もう花弁はない。一枚残らず散ってしまった桜は、逞しい幹と網のように張り巡らされた梢が虚しく風に吹かれているばかりである。ただその桜に華があった時期を意地悪く見せ付けるかのように、地に落ちた淡い桜色の花弁が風に攫われていた。
その間に屋敷の中の騒々しい音は既に近くへと接近していた。遠くにあった足音はもう近い。二人は今一度、固めた決意を確かめ合うように互いの顔を見ると、その決意が決して崩れぬように力強く頷いた。
――そして間もなく、早苗は二人の元に辿り着いた。疲労に、怒りに、或いは悲しみに歪んだ表情を、震わせながら。
「……」
ともすれば早苗の表情は今にも爆発してしまいそうな危うさを秘めた剣呑な物であった。が、早苗の胸の内にあるであろう激情は遂に破裂を迎える事はなく、彼女は持っている紙を力強く握り締めて顔を俯かせるのみで、何も云わなかった。ただ震えている肩が早苗の感情の片鱗を表現しているように思われる。それを見ながら、諏訪子と神奈子は何事も云わなかった。双方に同じ光を瞳に宿し、息を切らせている早苗を見下さんばかりに見詰めていた。
そんな心地の悪い沈黙が、三人の居るこの空間を支配していた。諏訪子と神奈子にはこの沈黙を先に打ち破る気概は殆どなかった。もしも早苗が何も云わずにこの場を去ろうとも、何もしないつもりであった。無論それは考えられぬ事態だと信じて疑わなかったが、どちらにしろこの沈黙がこの場を離れるのは、早苗が言葉を発するか、それとも早苗が此処を立ち去りその足音を響かせるかの二択である。早苗の心持はさぞ悪かった事であろう。
「お二人は……」
長い逡巡の後に発せられた早苗の言葉は、生気をことごとく失っているようであった。
弱々しく、覇気のない声音は確かに二人に届きはしたが、同時に不安を与える。その声音には悲しいとも、腹立たしいとも、また淋しいと訴える響きを含んでいない。無機質な機械のようなそれが、二人にとって最も苦痛であった。
「お二人は、もうじき消えるのを判っていたんですか」
「……うん。ずっと前から消えるのは判ってた。それがもうじきだと気付いたのが、最近だってだけで」
「では八坂様が仰った言葉は、私が捉えたように意味ではなかったんですか」
「私を信用してくれるなら、そうなるわ。自分勝手だけど、心配事を残して消えたくなかったのよ」
寒々しい風が縁側を吹き抜ける。もう上着なしでは過ごせぬ気候であるのを示すかのような冷たい風は、颯と吹き抜ける。それが早苗の顔を上げさせる切欠になったのかどうかは無論判らない。だが、少なくとも二人にはそう思えたのだ。今まで表情を覗かせなかった早苗の顔を、初めて見た時に。
――涙に濡れた頬は赤く色付き、激しく泣いた痕が瞼に残っている。透明な雫を滔々と流す瞳は、先刻の声音を大きく裏切って悲しみに満ち満ちていた。しかもそれは、寂しさからくる悲しみが入り混じっている。この時に初めて、二人は早苗がどれだけ思い悩んだのかを大悟した。頭の中に思い描いた筋書きの上に、それを悟ったのだ。
「なら……なら、どうしてそう云って下さらなかったんですか?」
「貴方の生きる道は、自分で決めた方が好いと思ったからよ」
早苗の震える声を、この数日間で何度聞いただろうか。神奈子はそう自問をしながら、涙など殆ど見なかった遠い過去に思いを馳せた。あの頃はこんな時がくるなど思いもしていなかった。それ故に、今の早苗の涙は心苦しい。殊にそれが流されるべくして流されたのだという事実が、神奈子を苛める。
「私達は早苗が望まない事はしたくないんだよ。幻想郷に行くつもりが無ければ、私達は自然の理に任せて消える。でも、もしも早苗が私達と一緒に来る事を願うなら、最後に悪足掻きをしてみようと思ったのよ。――何にしろ、私も神奈子も早苗を置いて消えるのが心配なだけ。この世界はとてもとても住みにくいから」
諏訪子の口調はともすれば冷淡であった。だが、その口調がどんな印象を早苗に与えたのかは判らない。諏訪子の言葉に含まれた優しさに、少しは気付いたかも知れない。――涙は止めどなく流れ続けていた。
「……私には」
「ん?」
「私には、お二人が消えてしまわれたらこの世界で生きて行ける自信がありません。だって、辛すぎます。お二人が居なくなったら、私は何を支えに生きて行けば好いんですか? 風祝だけでは何の意味もないのに――」
風祝は神を奉る存在である。その神とは、諏訪子と神奈子であった。それが早苗が風祝として生きる一つの要であり、それと同時に早苗を早苗として在らせる為の存在なのである。
家人達の目は何時でも風祝として励む早苗の虚像しか映してはいなかった。そしてまた、早苗に臨んだ事と云えばそれだけである。早苗には、殊更にその視線が冷たく思われた事であろう。だからこそ、そんな彼女を温かく包み込んでくれるかのような神奈子と諏訪子の視線は心地好かったのだ。それを失くしては、早苗の生きる人生に色はない。そこにはただ、寂然とした灰色の世界が広がっているばかりである。
「――だから、私も連れて行って下さい。先が見えなくても、お二人が居て下されば私は大丈夫ですから……」
そう云って泣き崩れた早苗の肩を支えた、大きさの異なる二つの手は、確かな温かみを持っていた。
ありがとう。そう云ったのは三人の内誰が云った言葉だったろう。
ごめんなさい。そう云ったのは、三人の内誰が云った言葉だったろう。
真実は判らない。――それは何時しか、闇の底に沈んでいた。
――続
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