11.02.15:23
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12.16.07:46
狂っている。
東方創想話投稿四作品目。
後書き。
物語が急になり過ぎていないか、それが一つの心配事です。
前回の……といってもすぐ前ですが、作品を投稿してから頂いたコメントに、幻想郷の呑気さ故に妖怪は危険視されていないというものがありました。この場を借りてお返事をさせていただくと、私もそこは承知でした。元々ゆるい性格の妖怪や人間が住まう幻想郷の中で、私の書いた作品はある意味場違いなのかも知れません。しかしそれでも妖怪は本来そうやって在ると私は考えます。霊夢や魔理沙などの特別な人間から見たら普通の事かも知れませんが、力を持たない人間にとってはとても恐ろしい事なのではないでしょうか。
つまるところ、やはり幻想郷の解釈は人によって異なるとい事ですね。私のような人も居ればそうでない人もいる。「貴方の傍にいる事を」の中でも主人公はそう口にします。私はそれが真理だと考えています。
そして今回の作品で表現したかったのは、そういうところでした。本来相容れない存在である人間と妖怪の共存という理想を夢見る魔理沙と、現実的な物言いでそれをいさめる霊夢や霖之助――そして物語の中に現れる決定的な力量の差。残酷でいて、私が捉える幻想郷の現実的な背景を描けていて、それを感じてくれたなら幸いです。
狂っていると他者を評する時、貴方は何を思っていますか?
あるいは周囲とは全く異なった考えを持つ者をそう言うかのも知れません。しかし、同時にそういう人たちは誰も成し遂げていないような偉業を成し遂げてみせる時だってあります。
あるいは気が触れている者を差すのかも知れません。自身が狂っているという自覚すら持てない哀れな心は、その時点で狂っていると言っても過言ではないのです。
――しかし、私は常々こう思います。
狂おしい愛ほどに、恐ろしいものはないのです。一方的に、しかし何処までも純粋な愛を伝える者が、一番狂っているという表現に正しいと思うのです。そして、そんな狂気を向けられ、それを享受してしまった時に、その愛を向けた相手と向けた自分が、同時に狂う時なのかも知れません。
さて作中で狂っているのは誰なのでしょうか。
周囲とは全く異なった考えの元に行動を起こす魔理沙か。
強引な手を使えば全ての束縛をふっ切ってでも自分の意思をはっきりとさせる事が出来たはずのフランドールか。
そうしてただ純粋な愛の前に生きるレミリアか。
はたまた人と妖怪の間に仕切りを作り、完全に割り切った考えをする霊夢や霖之助達なのか。
人の解釈は様々です。
それが答えを端的に示しています。
何故なら狂っていると評するのは他者で、狂っている当人はその事実に気付く事が出来ないからです。上にあげた人間と妖怪の誰彼も、決して自分が狂っているという自覚はないのでしょう。例え持っていたとして、それは確然たる証明にはなり得ません。狂っているという評は、何時だって他人から示されるものなのです。……
後書き。
物語が急になり過ぎていないか、それが一つの心配事です。
前回の……といってもすぐ前ですが、作品を投稿してから頂いたコメントに、幻想郷の呑気さ故に妖怪は危険視されていないというものがありました。この場を借りてお返事をさせていただくと、私もそこは承知でした。元々ゆるい性格の妖怪や人間が住まう幻想郷の中で、私の書いた作品はある意味場違いなのかも知れません。しかしそれでも妖怪は本来そうやって在ると私は考えます。霊夢や魔理沙などの特別な人間から見たら普通の事かも知れませんが、力を持たない人間にとってはとても恐ろしい事なのではないでしょうか。
つまるところ、やはり幻想郷の解釈は人によって異なるとい事ですね。私のような人も居ればそうでない人もいる。「貴方の傍にいる事を」の中でも主人公はそう口にします。私はそれが真理だと考えています。
そして今回の作品で表現したかったのは、そういうところでした。本来相容れない存在である人間と妖怪の共存という理想を夢見る魔理沙と、現実的な物言いでそれをいさめる霊夢や霖之助――そして物語の中に現れる決定的な力量の差。残酷でいて、私が捉える幻想郷の現実的な背景を描けていて、それを感じてくれたなら幸いです。
狂っていると他者を評する時、貴方は何を思っていますか?
あるいは周囲とは全く異なった考えを持つ者をそう言うかのも知れません。しかし、同時にそういう人たちは誰も成し遂げていないような偉業を成し遂げてみせる時だってあります。
あるいは気が触れている者を差すのかも知れません。自身が狂っているという自覚すら持てない哀れな心は、その時点で狂っていると言っても過言ではないのです。
――しかし、私は常々こう思います。
狂おしい愛ほどに、恐ろしいものはないのです。一方的に、しかし何処までも純粋な愛を伝える者が、一番狂っているという表現に正しいと思うのです。そして、そんな狂気を向けられ、それを享受してしまった時に、その愛を向けた相手と向けた自分が、同時に狂う時なのかも知れません。
さて作中で狂っているのは誰なのでしょうか。
周囲とは全く異なった考えの元に行動を起こす魔理沙か。
強引な手を使えば全ての束縛をふっ切ってでも自分の意思をはっきりとさせる事が出来たはずのフランドールか。
そうしてただ純粋な愛の前に生きるレミリアか。
はたまた人と妖怪の間に仕切りを作り、完全に割り切った考えをする霊夢や霖之助達なのか。
人の解釈は様々です。
それが答えを端的に示しています。
何故なら狂っていると評するのは他者で、狂っている当人はその事実に気付く事が出来ないからです。上にあげた人間と妖怪の誰彼も、決して自分が狂っているという自覚はないのでしょう。例え持っていたとして、それは確然たる証明にはなり得ません。狂っているという評は、何時だって他人から示されるものなのです。……
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